南区山王町に鎮座する神社。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。令和5年(2023)に鎮座350周年を迎えたこの神社は、横浜発展史の源流ともいえる「吉田新田」と深い関わりがある、由緒あるお宮である。
お三の宮日枝神社は、江戸幕府4代将軍徳川家綱の時代、寛文13年(1653)に創建された。神社創建を発起したのは、元は江戸在住の材木商であった吉田勘兵衛という人物。現在の横浜市南区・中区域の海を埋め立てたことの功が幕府に認められて神社の創建を許され、お三の宮日枝神社を創建した。彼が埋め立てたのは「吉田新田」と呼ばれる耕作用の土地。今の中区伊勢佐木町や南区吉野町など、北側の大岡川、南側の中村川、かつて関内駅前を流れていて今は首都高速横羽線となっている派大岡川に囲まれた地域である。この吉田新田が埋め立てられるまではこの地域は海の底。蒔田公園付近までが大きな入り江となっていた。
吉田勘兵衛が吉田新田の埋め立て工事を始めたのは明暦2年(1656)。そもそも勘兵衛がなぜ新田開発に手を出したかというと、自分で神社を建てたかったからだと言われている。当時の江戸では人口爆発が起きており、食料の安定供給に限界を迎えていた。そのため幕府は、1000石以上の耕地を開拓すれば神社の創建を許すという触れを発出。1石は現代に当てはめれば米140㎏。つまり、1年間に140t以上の米を収穫できる土地を作れということである。神社を建てたかった勘兵衛は、その触れに従って今の東京葛飾区などで新田開発事業に取り組むが、1000石を上回るような土地は簡単には作れず。それでも諦められず新たな開発地を探していたところ、江戸からさほど遠くなく、遠浅で波の低い横浜の入り江を見つけ、ここを埋め立てて新田開発をすることに決めたのだとされている。
明暦2年(1659)に工事を開始。入り江の出口、今の関内駅付近に堤防を築いて海を干上がらせる寸法で工事を行ったが、翌年の梅雨に降った豪雨によって堤防が崩れて計画がとん挫。それでも屈せずに計画を練り直して万治2年(1659)から工事を再開。堤防には城の石垣にも使うような石を伊豆国(静岡県伊豆半島)や安房国(現千葉県南部)から運んで使い、埋立土は野毛の丘陵などから切り崩して使用した。そうして寛文7年(1667)、一度目の着工から11年の歳月をかけて吉田新田が完成。今の伊勢佐木町や吉野町付近が陸地になった。当初は野毛新田と称していたが、将軍家綱からその功を認められて勘兵衛の苗字をとって吉田新田と名付けられ、さらに商人であるにも関わらず武士としての特権である帯刀を許され、念願だった神社の創建も認められたのだった。
新田完成から7年後、新田住民の安寧や五穀豊穣を祈る新田総鎮守として、勘兵衛念願のお三の宮日枝神社が創建された。その御加護か吉田新田の石高は1038石を超え、江戸の食料供給に貢献。幕末に横浜港が開港して以降は、旧新田域に店や建物が建ち並んで伊勢佐木町などの商業地区が誕生。今に続く370万人都市横浜発展の土台となったのだった。
・地域
横浜市西区山王町5丁目
・最寄り駅
横浜市営地下鉄ブルーライン 吉野町駅
京急本線 南太田駅