横浜市保土ヶ谷地域の発展は、江戸時代初期の慶長6年(1601)に置かれた宿場町「保土ヶ谷宿」を発端とする。宿場の範囲は、天王町1丁目2-8先にあった江戸見附から保土ヶ谷町2丁目104先にあった上方見附まで。幕末の文久2年(1862)には、江戸から国元へ帰る薩摩藩国父島津久光一行の薩摩藩士が鶴見生麦村でイギリス人を殺傷した「生麦事件」が発生した際、報復を恐れた島津勢が事件現場に近い神奈川宿を避けて保土ヶ谷宿に入ったとの記録も残る。参勤交代などで宿場を訪れる大名が宿泊する本陣は保土ヶ谷町1丁目に置かれ、当地を治めていた戦国大名後北条氏の家臣の子孫である苅部家が管理した。苅部家10代当主の苅部悦甫は、幕末期に横浜関内と東海道の連絡道である「横浜道」の整備に参加。この道は、伊勢佐木町吉田橋から野毛、戸部、平沼、国道1号浅間下交差点に至る道として残っており、現在も車通りが絶えない。明治から現在に至るまでの横浜発展に礎を作るのに大きく貢献した人物であった。
・地域
横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷町周辺
・最寄り駅
JR線 保土ヶ谷駅
相鉄線 天王町駅
保土ヶ谷⑴