関内地区の中心部、幹線道路である本町通りや関内大通りから少し逸れたところに、オフィスビルや小規模の飲食店が建ち並ぶ「弁天通り」と呼ばれる通りがある。知る人ぞ知るようなディープな飲食店が多く、周辺に比べれば落ち着いた雰囲気となっているが、かつては元町や馬車道とも肩を並べるような横浜を代表する商店街だった。
この弁天通りは、本町通りなどとともに、安政6年(1859)の横浜港開港時に造成された通りである。その名称は、幕末期まで弁天通6丁目付近に存在した「洲干島弁天社」の参道であったことに由来し、それが明治元年(1869)に羽衣町に厳島神社として移転された後も参道沿いの店が残って商店街へと発展を遂げた。周辺には他にも伊勢佐木町や馬車道、元町などの商店街が多く存在していたが、中でも弁天通りは外国人向けの生糸や陶磁器などを扱う店が多く、日本大通り東側の山下外国人居留地(現 山下町)の住民や来日した外国人旅行客らが多く訪れていた。近代の横浜で名を知られた商店や会社の多くもここで創業しており、後の伊勢佐木松坂屋である「野澤屋」と現在は東京に本社を置く大手書店「丸善」は弁天通2丁目、本牧の三渓園を造園したことで知られる原三渓が経営していた生糸貿易業「原合名会社」は3丁目で創業している。
関東大震災後に再建された街並みは、それ以前とは打って変わり、西洋風の意匠が施された鉄筋コンクリート造の建物が並ぶモダンな景色に生まれ変わった。歩道は歩きやすい石畳に変わり、道路の中央を走るのは人力車から乗用車へと変わっている。東京銀座に飽きた遊び客がタクシーでここまでやってきたという話も残っており、富裕層も認める一流の商店街であった。戦前期を通して栄えたが、戦時中の昭和20年(1945)に実施された横浜大空襲で大きな被害を受け、終戦後は進駐軍が弁天通一体を接収して兵舎用地とされてしまった。追い出された弁天通り沿いの商人たちは、その間に新天地を見つけて新たな商売を始めたが、そのままここに戻ってくることはなく、接収が解除された弁天通りはオフィス街へと変わっていった。
・地域
横浜市中区弁天通
・最寄り駅
みなとみらい線 馬車道駅・日本大通り駅
JR・市営地下鉄 桜木町駅・関内駅
弁天通り⑾