瑞應山弘明寺の創建は、奈良時代の天平9年(737)。今から1286年前、横浜港の開港から1122年前、吉田新田の完成から930年前。横浜の地が歴史の表舞台に出るよりずっと前から存在する寺院であり、横浜に現存する寺院では最古であるともいわれている。創建時の天平期は、東大寺を建立したことで知られる聖武天皇の御代。弘明寺の開基は、聖武天皇から東大寺建立の責任者に任じられていた行基だとされている。弘仁年間(810~824)には、真言宗開祖の空海もここを訪れ、庶民の招福を祈願したと伝えられている。以降も鎌倉幕府将軍の祈願所となり、戦国時代には小田原北条氏初代の北条早雲(伊勢宗瑞)から寺領の寄進を受け、江戸時代には徳川将軍から朱印地(寺領)を与えられるなど保護を受け、由緒正しき寺として坂東三十三観音にも指定された。江戸時代には現在の境内の姿が整っていたようで、本堂は明和3年(1766)、仁王門も江戸時代に建てられたと伝わっている。仁王門の建設年代は定かではないが、掲げられた扁額が享保7年(1722年)の筆のなのでその頃だろうか。門の両側に立っている金剛力士像は13世紀後半の運慶作のものであり、横浜市指定有形文化財に指定されている。本堂は江戸時代の築であるが、床板には平安時代の寛徳元年(1044)に建立された旧本堂の部材が使われているとのこと。そこに安置されているご本尊「十一面観世音菩薩立像」もまた平安時代の作。幾度の災害や戦災の被害を受けた横浜市内において、これだけ古いものが残っているのは非常に珍しいことである。
そんな奈良平安の景色を伝える弘明寺が危機に陥ったのは明治時代。江戸幕府が倒れて明治維新が起こり、武士の世から再び天皇を頂く世に戻ると、神道に重きを置いて仏教を悪とする廃仏毀釈が起こった。全国の寺社が弾圧を受け、弘明寺もその例に漏れずに寺領を没収される憂き目に合う。やがて運動は終息するが、明治中期には住職も不在になり、寺伝や寺宝も失ってしまい廃寺の危機に陥った。明治34年(1901)、渡辺寛玉師が住職に就任すると、荒廃した弘明寺を立て直すために弘明寺保勝会を設立し、弘明寺の再興と周辺地域の街おこしにあたった。その街おこしの中で生まれたのが大岡川の桜並木と弘明寺商店街。大岡川の桜並木は今ではその範囲を河口付近にまで広げ、毎年春に開催される「大岡川さくら祭り」は、市内外から15万人以上の人を集める大きなイベントになっている。弘明寺商店街の道路は明治44年(1911)に完成。当時の神奈川県知事周布公平氏の主導によって造成され、今も弘明寺の門前町として栄えている。弘明寺の再興は、今に続く横浜の賑わいある景色を作り出すことになったのである。
・地域
横浜市南区弘明寺町周辺
・最寄り駅
京急線・市営地下鉄 弘明寺駅
弘明寺⑴