V1160 横濱今昔写真蔵
弁天橋上から大岡川河口を写した古写真。今ではみなとみらいの街並みが広がるが、当時は遠く子安や鶴見の丘まで見渡すことができた。うっすらと写っている丘は、今の神奈川区浦島丘付近であろうか。
河口の右側に建っている灯台は、北仲通6丁目「航路標識管理所」の試験灯台である。航路標識管理所は、明治2年(1869)に「灯明台局」として開局。近代灯台の研究と管理を行う目的で設置された。日本開国後、国内外の船舶が大量に行き来するようになった横浜港や各地の港において、最重要課題であったのが灯台の設置であった。開国前の日本でも灯台は存在していたが、菜種油の火で照らすことのできた距離はせいぜい7km程度。より遠い距離に光を届かせるには近代的な技術を用いた灯台の設置が必要不可欠で、富国強兵を目指す政府にとっても急務であった。そうして明治2年(1869)に横浜で灯明台局が開局するに至り、同年にはお雇い外国人ヴェルニーの手によって、横須賀観音崎に日本初の洋式灯台が設置さ。以降日本各地に灯台が設置され、灯明台局は海洋国家日本の発展において大きな役割を果たすこととなった。
試験灯台が設置されたのは、灯明台局開設から5年後の明治7年(1874)のこと。局内の大岡川河口付近に灯台守の養成や技術研究を目的として灯台を設置。高さ12.2m、3階建て、レンガ造りの灯台であった。明治33年(1900)に4階建てへと改築されており、古写真に写っているのはその改築後の様子である。その後の灯明台局の歴史を追うと、明治10年(1877)に灯明台局が「灯台局」と改称。明治24年(1891)には、逓信省下の部局として「航路標識管理所」が設置され、灯台局や試験灯台も管理所に移管されている。大正12年(1923)に発生した関東大震災では、管理所内の建物が軒並み倒壊、所長以下数名が無くなる被害を受けたが、試験灯台だけは崩れることなく耐え抜いている。しかし、昭和初期には撤去されたようで、昭和19年(1944)の航空写真ではすでに確認できなくなっている。航路標識管理所としては、この後も船務部、海運部、灯台部などと名称を変えながら、昭和23年(1948)に海上保安庁の部局として東京に移転されるまで存続した。灯台の跡地には、発掘された基礎遺構とともに「灯台発祥の地」の説明版が置かれている。
こちらの古写真も同地点で撮影された。大正期に入り、今の汽車道である貨物線「税関線」が開通している。
被写体:航路標識管理所 大岡川
参考文献:横濱社会辞彙
ワンポイント:たった120年でこの景色の変わりよう。人間の力は凄い。
灯台発祥の地
左側のレンガが灯台の基礎遺構
航路標識管理所遺構
横浜市役所建設時に発掘
航路標識管理所遺構
横浜市役所建設時に発掘