A1069 横濱今昔写真蔵
現在の伊勢佐木町2丁目と3丁目の境から3丁目の街並みを眺めているアングル。当時の伊勢佐木町3丁目は「賑町」と呼ばれており、明治期から芝居小屋や寄席などの劇場が多数存在していた。大正期からは、当時「活動写真館」と呼ばれていた映画館の出店が相次ぎ、以降昭和戦後期に至るまで東京近郊の有力シネマ街として知られるようになった。絵葉書にも「Theater Street」と題されたものが多く残っている。
古写真左側手前に建っているのは、長者町6丁目57番地の「オデオン座」。ドイツ系貿易商社ニーロップ商会のリチャード・ワダマン氏によって明治44年(1911)に開かれた洋画専門映画館である。ここでは、横浜港で輸入された映画フィルムが封を切られて初公開されていた。その様を「封切り」と呼んだことが、新作映画の初公開を意味する言葉として今日まで言われ続けているのだという。大正12年(1923)に発生した関東大震災では建物が倒壊。当時の支配人平尾栄太郎氏や観客ら圧死する悲劇の舞台となるが、翌年には営業再開を果たし、昭和11年(1936)には鉄筋コンクリート造4階建ての建物が再建された。その後は松竹に経営委託され「横浜東亜劇場」、終戦後に米軍に接収されて「オクタゴンシアター」、返還後に「横浜松竹」などと名称を変更して営業していたが、戦後の昭和60年(1985)の建物建て替えに伴って「横浜オデオン座」に戻った。その後も営業が続けられたが、横浜駅西口の開発による伊勢佐木町の客足減少、さらにみなとみらいに映画館が開館したことによって観客数が激減。業績奮わず平成12年(2000)に閉館した。
オデオン座の右隣は長者町6丁目57番地の「又楽館」。こちらは邦画専門映画館として明治45年(1912)に開館した。4階建ての建物に2430人を収容できる伊勢佐木町内屈指の大規模映画館であった。支配人は内山梅吉という人物。内山氏は、横浜市内及び伊勢佐木町界隈で初めて開館した映画館とされる「開港紀念電気館」も明治43年(1910)に開いていて、伊勢佐木町のシネマ街としての歴史の幕を開いたともいえる人物である。関東大震災で被災した後にバラック建てで営業再開した後、昭和5年(1930)に閉館した。跡地には隣接地の「オデオン座」が拡張された。
又楽館の2軒右隣は賑町1丁目1番地の 「清風亭」。「南京料理」と書かれていることからもわかるように中国料理店だったようである。大正6年(1917)頃には長者町7丁目67番地に移転している。
右側に見えるのぼり旗は「喜楽座」のものと思われる。
被写体:オデオン座、又楽館、清風亭
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、横濱社会辞彙、横浜商工名鑑(大7)、横濱成功名誉鑑、横浜中区史
ワンポイント:
撮影/島田翔陽
南側より撮影された又楽館。高い塔屋を持っていた。