A1103 横濱今昔写真蔵
伊勢佐木町側から馬車道を望む。現在、首都高速横羽線の切通しが通されている場所には、古写真が撮影された当時「派大岡川」と呼ばれる運河が流れており、周辺地域における水運交通路として利用されていたとともに、外国人が暮らす開港地とその外を隔てる堀の役割を果たしていた。そこに吉田橋が初めて架けられたのは、横浜港開港と同年の安政6年(1859)。東海道から平沼~戸部~野毛~吉田町を経て横浜市街と連絡する「横浜道」の終点に位置づけられ、開港場内外の行き来を監視する関門が橋上に設けられていた。このことが由来して、今も派大岡川跡より海側地域を関内、陸側の伊勢佐木町など旧吉田新田地域を関外と呼んでいる。この古写真では、関外側から関内側を望んでいるということになる。
古写真に写る吉田橋は明治2年(1869)に完成した3代目のもの。日本大通りの造成や東京~横浜間の電信整備に関わったお雇い外国人リチャード・ブラントン氏の設計による日本初の鉄製トラス橋である。全長23.6m、幅9.1m。竣工当初から明治7年(1874)までは馬車1銭、人力車5厘の通行料が課せられていたため、鉄橋であることと金を取ることをかけて「鉄(かね)の橋」とも呼ばれていた。この橋は明治44年(1911)に鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられて現存しないが、戦後の昭和46年(1971)の派大岡川埋め立てを経て、昭和53年(1978)の高速道路開通に伴って架けられた現在の吉田橋(5代目)には、鉄の橋の欄干が再現されている。
吉田橋の対岸には、馬車道の寄席「富竹亭」が建っている。
撮影地:横浜市中区吉田町18番より東方向
被写体:吉田橋 富竹亭 派大岡川
撮影/島田翔陽
現在の吉田橋
”鉄の橋”時代の欄干が再現されている。