A3046 横濱今昔写真蔵
伊勢佐木町2丁目より3丁目の街並みを望む。伊勢佐木町3丁目には古くから芝居小屋や劇場などが多数存在しており、大正期には当時「活動写真館」と呼ばれていた映画館の出店が相次いでシネマ街へと発展を遂げた。絵葉書にも「Theater Street」と題されたものが多く残っている。大正12年(1923)に発生した関東大震災を経た昭和戦前期に至ってもその景色は変わらないが、店先にのぼり旗が掲げられていたのが時期が下るに連れて徐々にネオンサインに変わってゆくところには、大正ロマンの時代からモダン文化への時代へと徐々に移り変わっているのを感じる。
左側奥の角に建っているビルは「オデオン座」である。ドイツ系貿易商社ニーロップ商会のリチャード・ワダマン氏によって明治44年(1911)に開かれた洋画専門映画館で、伊勢佐木町でもっとも著名な映画館の一つであった。写真の建物は、関東大震災で旧建物が倒壊した後に再建されたバラック建築を昭和11年(1936)に鉄筋コンクリート造4階建てで建て替えたものである。収容人数は1,245人を誇った。このオデオン座では、横浜港で輸入された映画フィルムの封を館内で切って初公開していた。その様を「封切り」と呼んだことが、新作映画の初公開を意味する言葉として今日まで言われ続けているのだという
建て替えによって大規模劇場となったオデオン座であったが、昭和10年代に入ってアメリカとの対立が激化すると洋画の規制が強化されたため、独自での経営は困難に陥った。そのため、館主の六崎市之介は、昭和15年(1940)に有力映画会社の松竹にオデオン座の経営を委託。次いで太平洋戦争中の昭和17年(1942)には「横浜東亜劇場」と改称され、もっぱら日本軍を賛美する映画が中心の邦画専門劇場として運営された。やがて昭和20年(1945)に終戦を迎えると建物が進駐軍に接収され、米軍専用の「オクタゴンシアター」として使用された。その間は曙町1丁目で旧館名を復した「横浜オデオン座」を仮店舗として運営していたが、昭和30年(1955)に建物の接収が解除されると「横浜松竹映画劇場」として営業を再開。しばらく営業されたが、劇場再開の際に旧館主の六崎市之介と松竹との間で建物の買戻し交渉が上手くいかず、その後裁判に持ち込まれていた事件が昭和45年(1970)に和解が成立。その中の取り決めで劇場の土地を再開発すべき旨が盛り込まれたため、それに従って昭和48年(1973)に閉館。老朽化していた建物も取り壊された。
忘れ去られるかに見えたかつての大劇場であったが、閉館から12年後に復活を遂げる。建物解体後、その跡地には昭和50年(1975)に「ニューオデオンビル」が建設されて現在に至るまでショッピングビルとして使用されているが、昭和60年(1985)にビル9階で東宝系列の「横浜オデオン座」として映画館が再開業した。しかし、横浜駅西口などの開発による伊勢佐木町の客足減少、さらにみなとみらい地区に大規模な映画館が複数開館したことによって観客数が激減。相次ぐ商売敵の出現に新生オデオン座は業績奮わず、平成12年(2000)に惜しまれつつ再び閉館した。
被写体:オデオン座、鈴一、電気館、相模屋
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
オデオン座跡地「ニューオデオンビル」