V1009 横濱今昔写真蔵
本町通りを弁天橋東端から眺めている構図。右側に分岐する道は弁天通りである。今は左真横に横浜市役所庁舎が建っている。こちらの古写真と同様、これも明治41年(1908)のスペリー艦隊来航の際に撮影されたものである。通りが日本国旗とアメリカ国旗の提灯で飾りつけられ、弁天通り入り口には弁天橋と似たような鳥居型のゲートが設けられている。
明治維新後、日露戦争に勝利するなどして国際社会の中で急速に力をつけた日本は、西欧列強諸国に危険視される存在となっていた。その中でアメリカは、スペリー提督率いる艦隊を軍事演習の名目で太平洋日本近海に派遣。さらに親善交流と称して艦隊を横浜港に寄港させることを日本側に求め、日本国民の前で軍事力を誇示し圧力をかけようと試みた。対する日本側の対応は、遠回しな敵視政策をとるアメリカの思惑を逆手にとった熱烈な歓迎だった。10月18日午前9時すぎに来航後、横浜公園で歓迎式典を開催。その後山下居留地20番グランドホテルにて晩餐会を催し、夜は2400発の花火を打ち上げてもてなした。弁天橋をはじめ、本町通りや弁天通りなど、市街の主要な道路も歓迎の意を込めた飾り付けがなされた。このような対応策を奨励したのは、当時の早稲田大学総長大隈重信だと言われており、「ペリー来航後50年が経ち、彼らが巻いた文明の種がどこまで成長したかを見せつけてやろう」という意味が込められていたのだという。ぞんざいな対応を受けるか、あるいは恐れおののくだろうと想定していたアメリカ海軍もこれにはあっけにとられたのだとか。外交戦としては日本側の勝利であった。
このとき来航したスペリー艦隊は、船体が全て白く塗られていた。その姿を見た人々は、かつて来航したペリー艦隊の黒船をもじってスペリー艦隊を「白船」と呼んだ。
被写体:内国通運
参考文献:横濱社会辞彙、横浜開港資料館webサイト
ワンポイント:人込みの中を自転車で走る男性、危ないから降りたほうが良い。