C1006 横濱今昔写真蔵
弁天橋は、現在の桜木町駅新南口前に架かる橋。明治4年(1871)に初めて架橋され、翌年明治5年(1872)に新橋~横浜間の鉄道開通に伴って初代横浜駅(現 桜木町駅)が開業してからは、駅前と関内地区の幹線道路である本町通りとを結ぶ主要な交通路として多くの人に利用された。みなとみらいや横浜駅西口などがまだ存在しなかった時代、当時の中心市街地である関内に繋がるこの弁天橋こそが横浜の玄関口であった。
明治41年(1908)に撮影されたこの古写真では、弁天橋が鳥居型のゲートや国旗を掲げるなどして大掛かりに装飾されている様子が写されている。この飾り付けは、親善交流と称して横浜港に寄港したアメリカのスペリー艦隊を歓迎するためになされたものである。明治維新後、日露戦争に勝利するなどして国際社会の中で急速に力をつけた日本は、西欧列強諸国に危険視される存在となっていた。その中でアメリカは、スペリー提督率いる艦隊を軍事演習の名目で太平洋日本近海に派遣。さらに親善交流と称して艦隊を横浜港に寄港させることを日本側に求め、日本国民の前で軍事力を誇示し圧力をかけようと試みた。対する日本側の対応は、遠回しな敵視政策をとるアメリカの思惑を逆手にとった熱烈な歓迎だった。10月18日午前9時すぎに来航後、横浜公園で歓迎式典を開催。その後山下居留地20番グランドホテルにて晩餐会を催し、夜は2400発の花火を打ち上げてもてなした。弁天橋をはじめ、本町通りや弁天通りなど、市街の主要な道路も歓迎の意を込めた飾り付けがなされた。このような対応策を奨励したのは、当時の早稲田大学総長大隈重信だと言われており、「ペリー来航後50年が経ち、彼らが巻いた文明の種がどこまで成長したかを見せつけてやろう」という意味が込められていたのだという。ぞんざいな対応を受けるか、あるいは恐れおののくだろうと想定していたアメリカ海軍もこれにはあっけにとられたのだとか。外交戦としては日本側の勝利であった。
このとき来航したスペリー艦隊は、船体が全て白く塗られていた。その姿を見た人々は、かつて来航したペリー艦隊の黒船をもじってスペリー艦隊を「白船」と呼んだ。
弁天通りを渡った先でも歓迎装飾の写真が撮影されている。
被写体:弁天橋 横浜銀行集会所 上州屋旅館 原合名会社 横浜電気鉄道(横浜市電)
参考文献:横濱社会辞彙、横浜開港資料館webサイト
ワンポイント:桜木町駅から関内方面へ出かける際は、ぜひ新南口から駅を出て、明治時代の横浜に来たことを想像しながら弁天橋を渡ってみてほしい。