A1104 横濱今昔写真蔵
現在の伊勢佐木町3丁目内から2丁目方向を望む。こちらの古写真と逆アングルから撮影。右側にはオデオン座と又楽館が並んでいる。又楽館の右隣に建っていた中国料理店「清風亭」は西洋料理店「日盛楼」へと建て替わっている。キリンビールの看板が掲げられているのがそれである。本店は関内の太田町5丁目85番地にあり、明治元年(1868)に創業。当時の日本人はまだ西洋料理に馴染みが無かったが、創業者白鳥氏の並々ならぬ努力によって人気を博した。大正期に経営者となった米山フク子氏は、明治21年(1888)から20年間米国で料理修業を積み、明治40年(1907)に日盛楼を引き継いだ。伊勢佐木町支店は大正4年(1915)に開店した。
長者町6丁目57番地の「オデオン座」は、ドイツ系貿易商社ニーロップ商会のリチャード・ワダマン氏によって明治44年(1911)に開かれた洋画専門映画館である。横浜港で輸入された映画フィルムがここで封が切られて初公開されていた。その様を「封切り」と呼んだことが、新作映画の初公開を意味する言葉として今日まで言われ続けている。大正12年(1923)に発生した関東大震災では建物が倒壊。当時の支配人平尾栄太郎氏や観客ら圧死する悲劇の舞台となるが、翌年には営業再開を果たし、昭和11年(1936)には鉄筋コンクリート造4階建ての建物が再建された。その後は松竹に経営委託され「横浜東亜劇場」、終戦後に米軍に接収されて「オクタゴンシアター」、返還後に「横浜松竹」などと名称を変更して営業していたが、戦後の昭和60年(1985)の建物建て替えに伴って「横浜オデオン座」に戻った。その後も営業が続けられたが、横浜駅西口の開発による伊勢佐木町の客足減少、さらにみなとみらいに映画館が開館したことによって観客数が激減。業績奮わず平成12年(2000)に閉館した。
オデオン座の右隣は長者町6丁目57番地の「又楽館」。こちらは邦画専門映画館として明治45年(1912)に開館した。4階建ての建物に2430人を収容できる伊勢佐木町内屈指の大規模映画館であった。支配人は内山梅吉という人物。内山氏は、横浜市内及び伊勢佐木町界隈で初めて開館した映画館とされる「開港紀念電気館」も明治43年(1910)に開いていて、伊勢佐木町のシネマ街としての歴史の幕を開いたともいえる人物である。関東大震災で被災した後にバラック建てで営業再開した後、昭和5年(1930)に閉館した。跡地には隣接地の「オデオン座」が拡張された。
被写体:喜楽座、又楽館、オデオン座、左右田銀行、太田家、日盛楼
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、横濱社会辞彙、横浜商工名鑑(大7)、横濱成功名誉鑑、横浜中区史
ワンポイント:
撮影/島田翔陽
オデオン座
又楽館