A3127 横濱今昔写真蔵
現在の鎌倉街道に架かっていた羽衣橋から吉田橋を望む。羽衣橋は、関東大震災後の大正15年(1926)に架けられた鉄骨製の震災復興橋。昭和46年(1971)の派大岡川埋め立てに伴い撤去されるまで使用されていた。この羽衣橋と吉田橋の間の左岸、大正時代まで伊勢佐木警察署が建っていた場所には、新たに「松屋吉田橋店」のビルが建てられている。
現在は東京銀座と浅草のみに店舗を構えている松屋百貨店は、はじめ「鶴屋呉服店」として、明治2年(1869)に横浜石川町地蔵坂下で創業した。大正12年(1923)に発生した関東大震災では、石川町の本店や東京神田の支店が被災。店舗再建を進める中で屋号が「鶴屋」から「松屋」に改められ、さらに本店も銀座に変更することとなり、石川町の旧本店は閉店された。その代わりに石川町の仮店舗として営業されていた伊勢佐木町吉田橋店が横浜市内における基幹店とされ、昭和5年(1930)に古写真に写る鉄筋コンクリート造の本建築が竣工。伊勢佐木町通り入口の横にそびえる地上7階地下1階建てのビルは、街の新たな顔となり、通りに店舗を構える野澤屋(後の松坂屋)とともに横浜を代表するデパートとして流行の発信地となった。昭和9年(1933)には、今も伊勢佐木町通りに「エクセル伊勢佐木」として現存している越前屋百貨店の建物を買収して、吉田橋店の支店として「鶴屋百貨店」(後に寿百貨店に改称)を開業。2店舗体制となった松屋横浜は最盛期を迎えた。しかし、昭和16年(1941)に太平洋戦争が勃発し、それがやがて激化すると、松屋吉田橋店の建物は日本海軍に徴用されることとなり、昭和19年(1944)に閉店。建物が海軍の手に渡った後は「海軍航空技術廠」として使用された。戦後は進駐軍が接収。昭和30年(1955)になってようやく松屋側へ返還されたが、松屋の店舗として再開されることはなく、三和銀行(現 三菱UFJ銀行)引き渡されて横浜支店として使用された後、派大岡川埋め立てに伴って昭和47年(1972)に解体された。なお、松屋自体は吉田橋店徴用の際に寿百貨店が松屋横浜店にリニューアルされて戦後まで存続したが、こちらも昭和48年(1978)に閉店。これをもって松屋の店舗は創業地である横浜から消滅した。
松屋吉田橋店の奥に見えるビルは、吉田町通り沿いで昭和5年(1930)に竣工した「都南貯蓄銀行」の本店ビル。今も建物が現存している。都南貯蓄銀行は、大正10年(1921)に神奈川県内に本店を構える貯蓄銀行を合併して設立された個人貯蓄専門の銀行。昭和20年(1945)に横浜興信銀行(現 横浜銀行)に合併されて消滅した。戦後の昭和29年(1954)からは、静岡中央銀行横浜支店として利用されていたが、平成17年(2005)に移転した後は「都南ビル」の名称でオフィスビルとして利用されている。
同地で撮影された関東大震災前の写真はこちら。
被写体:都南貯蓄銀行(都南ビル)、本邦道路橋輯覧、松屋吉田橋店、吉田橋(4代)、羽衣橋
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
現在の都南ビル(都南貯蓄銀行本店)
現在の都南ビルの玄関(都南貯蓄銀行本店)