V1026 横濱今昔写真蔵
本町一丁目交差点より日本大通り方向を望む。
通り左側のバルコニーに阿吽像が置かれた建物は、本町1丁目20番(現本町1丁目5-2)の骨董品店「サムライ商会」。明治27年(1894)に野村洋三という人物によって開業された。野村氏は、アメリカやヨーロッパに留学する中で、海外の人々が日本の文化に関心を寄せていることを知った。これをビジネスチャンスと捉えた彼は帰国後、国内全国から伝統工芸品や美術品を仕入れ、外国人が多く集まるこの横浜本町通りの地で骨董品店のサムライ商会を創業した。「サムライ」という屋号も外国人を引き入れるために名付けられたものだ。創業当初の店舗建物には、阿吽像が置かれている以外にこれといった特徴は見受けられないが、明治40年(1907)以降に撮影された写真では、まるで城か寺社仏閣のように改築されている。これには外国人のみならず日本人からも興味を引くようになり、大正期には横浜の有名建築の一つとして人々に知られるようになった。
大正12年(1923)に発生した関東大震災では、サムライ商会の店舗は木造だったことにより火災で全焼。その後営業再開を果たしたが、昭和初期に頻発した不況の波に飲まれ、廃業を余儀なくされてしまった。骨董品業から撤退せざるを得なくなった野村であったが、商売の中で得た財界人や外国要人との縁から、震災復興の要として昭和2年(1927)に開業したホテルニューグランドの経営に参加。昭和13年(1938)には会長に就任した。戦後の占領期には、ホテルに宿営していたGHQ司令官マッカーサーと交渉し、市民への食糧支援を実現。その後も横浜商工会議所会頭や横浜日米協会会長などを歴任し、横浜の戦後復興に尽力した。明治以降の横浜の発展、関東大震災と横浜大空襲の二度の災厄に見舞われながらもその度に復興を果たす街の姿を見届けた野村洋三は、昭和40年(1965)にその生涯を閉じた。
サムライ商会の右隣は、本町1丁目19番(現本庁1丁目5番)の「椎野絹織物店」。オーストラリアや欧州の絹織物工場を視察した椎野賢三が明治16年(1883)に創業した。通りの奥には「初代横浜市役所」、「横浜郵便局」が見える。
被写体:サムライ商会、椎野絹織物店、横浜郵便局、横浜市役所(初)
参考文献:横濱社会辞彙、野村洋三顕彰会WEBサイト
ワンポイント:左側の着物を着た男性がしっかりカメラ目線。絵葉書発行元の関係者?