横浜絵葉書の普及以前より、横浜では大判の白黒写真に色付けをした写真がお土産品として販売されており、来日した外国人がよく買い求めていたといいます。やがて私製絵葉書が普及するとそうした手彩色写真は手彩色絵葉書へと姿を変え、市内各所の商店で販売されるようになりました。絵葉書の普及以前から彩色風景写真を販売していたことに注目すれば、横浜は手彩色絵葉書の先駆的な存在だったと言ってもいいでしょう。
横浜で初めて風景写真絵葉書の販売を始めたのは「横浜写真版印刷所」です。山下居留地29番のアーレンス商会に勤めていた上田義三が明治30年(1897)に山手谷戸坂で開いたもので、絵葉書のほかにもカタログやレターペーパーなど各種印刷物を手掛けていました。ほかの絵葉書店では、関内尾上町の「星野屋」、伊勢佐木町の「トンボヤ」、元町の「上方屋」などが有名でした。当時の絵葉書1枚の値段は安いもので2銭(現代換算で500円ほど)、高いもので10銭(約2,500円)など様々。10枚セット25銭(約6,250円)といったものもありました。
大日本帝国商工信用録 大正元年(1912)
初期の手彩色絵葉書はプロの絵師が彩色を担当していたようですが、量産が始まった明治後期頃にはアルバイトが担当していたこともあったようです。明治39年(1906)の東京朝日新聞の記事では「絵葉書下彩色一日五百枚仕上にて十七銭及至二十銭(日給4,250円から5,000円)」と記されています。確かに絵葉書をよくよく見てみると、きちんと彩色されているものだけでなく、線をはみ出しているなど少し適当に塗られているものも散見されます。この違いもまた手彩色絵葉書のおもしろいところです。
大正12年(1923)に発生した関東大震災では市内の絵葉書店の多くが被災。そのまま廃業してしまった店舗も少なくなかったようですが、苦境の中でも営業再開に漕ぎつけた店舗は被災風景を写した絵葉書を販売。絵葉書は日本中に拡散され、被害状況をいち早く伝えることに貢献しました。
震災後も横浜絵葉書の生産販売は続きましたが、昭和に入る頃には機械技術の発達によって絵葉書の彩色が手仕事から機械に代わり、手作り感のある手彩色絵葉書は姿を消すことになります。そして軍靴の足音が近づく昭和15年(1940)になると、横浜川崎両市において高所からの風景写真を撮影することが禁止され、その他の写真に関しても臨検が厳しくなり、横浜絵葉書は衰退。風景絵葉書の文化自体も戦後まで途絶えることになりました。