A1109 横濱今昔写真蔵
現在の伊勢佐木町3丁目内から2丁目方向を望む。明治後期のこちらの古写真とほぼ同じ場所で撮影されており、喜楽座に加えてオデオン座と又楽館、清風亭が出現している。大正5年(1916)頃にも同じ場所で撮影された写真がある。
賑町1丁目3番地に建っていた「喜楽座」は、明治13年(1880)に「羽衣座」の名称で開業した劇場。明治32年(1899)に関外地区一帯で発生した雲井大火で建物が焼失した後、建て直して営業再開した際に喜楽座と改められた。旧来の商屋建築の上に洋風の塔屋を乗せた和洋折衷の建物は、通りを行き交う人々の目を引き、毎公演が満員御礼となるほどの活況を呈していたという。伊勢佐木町界隈には他にも多くの劇場が存在したが、活動写真館(映画館)が増え始める大正初期になると、その多くは流行に乗って活動写真館へと転業した。しかしこの喜楽座はそのまま劇場として営業を継続。一方で映画の良さも取り入れ、芝居中のワンシーンに映画の映像を組み入れるなどした「連鎖劇」と呼ばれるハイブリット型公演で人気を博した。大正4年(1915)には建物を西洋風に改築し、収容人数も2000人へと拡大した。しかし、その8年後の大正12年(1923)に発生した関東大震災で建物が倒壊。すぐに再建を果たしたが、その後は劇場としての営業を取りやめて映画館営業一本となった。昭和5年(1930)に日本活動写真株式会社(現 日活)が運営を引き継いで「横浜日活会館」に改称。さらに「横浜日活映画劇場」、最後は「横浜オスカー」となり、平成14年(2002)に閉館するまで続いた。横浜オスカー時代の建物は今も「横浜日活会館ビル」として現存しており、ゲームセンターやボウリング場が入居している。
長者町6丁目57番地の「オデオン座」は、ドイツ系貿易商社ニーロップ商会のリチャード・ワダマン氏によって明治44年(1911)に開かれた洋画専門映画館である。ここでは、横浜港で輸入された映画フィルムが封を切られて初公開されていた。その様を「封切り」と呼んだことが、新作映画の初公開を意味する言葉として今日まで言われ続けているのだという。大正12年(1923)に発生した関東大震災では建物が倒壊。当時の支配人平尾栄太郎氏や観客ら圧死する悲劇の舞台となるが、翌年には営業再開を果たし、昭和11年(1936)には鉄筋コンクリート造4階建ての建物が再建された。その後は松竹に経営委託され「横浜東亜劇場」、終戦後に米軍に接収されて「オクタゴンシアター」、返還後に「横浜松竹」などと名称を変更して営業していたが、戦後の昭和60年(1985)の建物建て替えに伴って「横浜オデオン座」に戻った。その後も営業が続けられたが、横浜駅西口の開発による伊勢佐木町の客足減少、さらにみなとみらいに映画館が開館したことによって観客数が激減。業績奮わず平成12年(2000)に閉館した。
長者町6丁目57番地の「又楽館」は、邦画専門映画館として明治45年(1912)に開館した。4階建ての建物に2430人を収容できる伊勢佐木町内屈指の大規模映画館であった。支配人は内山梅吉という人物。内山氏は、横浜市内及び伊勢佐木町界隈で初めて開館した映画館とされる「開港紀念電気館」も明治43年(1910)に開いていて、伊勢佐木町のシネマ街としての歴史の幕を開いたともいえる人物である。関東大震災で被災した後にバラック建てで営業再開した後、昭和5年(1930)に閉館した。跡地には隣接地の「オデオン座」が拡張された。
被写体:喜楽座、又楽館、オデオン座、左右田銀行、清風楼
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、横濱社会辞彙、横浜商工名鑑(大7)、横濱成功名誉鑑、横浜中区史
ワンポイント:
撮影/島田翔陽
喜楽座
又楽館
オデオン座