A3143 横濱今昔写真蔵
現在の伊勢佐木町3丁目中ほどから2丁目方向を望む。通り左側に見える建物は、明治大正期から存在する活動写真館(映画館)の「喜楽座」。その向かい側には、同じく明治大正期から存在する邦画専門活動写真館の「又楽館」が写っているが、この後まもなく閉館している。喜楽座も後継の映画館が平成期に入って閉館したことによりすでに存在しないが、右側手前角に建っているビルは「ラ・モーダビル」として、横浜大空襲を乗り越えて今日まで現存している。
ラ・モーダビルの所在地は伊勢佐木町3丁目99番地。建物の竣工年や当時の建物名は定かではないが、昭和5年(1930)撮影の当古写真に写っていることの状況証拠や、同年刊行の「横浜市商工名鑑」に該当番地で「山田貴金属店」が営業していることが関東大震災後で最古の情報であることを見るに、少なくとも昭和5年(1930)までに建設されたことは確かなようである。翌年昭和6年(1931)の官報では「山田合名会社」、昭和7年(1932)の官報では「丸東商店横浜支店」、昭和11年(1936)の「東京・横濱近懸職業別電話名簿」では「松田食器店」が当地で営業していたのが確認できる。戦後の昭和34年(1959)からしばらくは「洋食屋小西」が営業していた。「ラ・モーダビル」の名称が現れるのは平成期に入ってからのことである。
喜楽座は、明治13年(1880)に「羽衣座」の名称で開業した劇場で、明治32年(1899)に関外地区一帯で発生した雲井大火で建物が焼失した後、建て直して営業再開した際に喜楽座と改められた。明治大正当時の建物は、旧来の商屋建築の上に洋風の塔屋を乗せた和洋折衷建築。通りを行き交う人々の目を引き、毎公演が満員御礼となるほどの活況を呈していたという。伊勢佐木町界隈には他にも多くの劇場や芝居小屋が存在していたが、活動写真館(映画館)が増え始める大正初期になってその多くが活動写真館へと転業した一方、この喜楽座はそのまま劇場として営業を継続。一方で映画の良さも取り入れ、芝居中のワンシーンに映画の映像を組み入れるなどした「連鎖劇」と呼ばれるハイブリット型公演で人気を博した。大正4年(1915)には建物を西洋風に改築し、収容人数も2000人へと拡大した。しかし、その8年後の大正12年(1923)に発生した関東大震災で建物が倒壊。すぐに当古写真に写る建物を再建したが、その後は劇場としての営業を取りやめて映画館営業一本となった。昭和5年(1930)に日本活動写真株式会社(現 日活)が運営を引き継いで「横浜日活会館」に改称。さらに「横浜日活映画劇場」、最後は「横浜オスカー」となり、平成14年(2002)に閉館するまで続いた。横浜オスカー時代の建物は今も「横浜日活会館ビル」として現存しており、ゲームセンターやボウリング場が入居している。
又楽館は、邦画専門映画館として明治45年(1912)に開館した。支配人は内山梅吉という人物。内山氏は、横浜市内及び伊勢佐木町界隈で初めて開館した映画館とされる「開港紀念電気館」も明治43年(1910)に開いていて、伊勢佐木町のシネマ街としての歴史の幕を開いたともいえる人物である。関東大震災で被災した後にバラック建てで営業再開した後、昭和5年(1930)に閉館した。閉館後の跡地には隣接地の「オデオン座」が拡張された。
被写体:喜楽座、又楽館、現存建築
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、東京・横濱近懸職業別電話名簿、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
左側が又楽館。
右手前が謎の現存ビル。
謎の現存ビル。
「ラ・モーダ・ビル」