A3005 横濱今昔写真蔵
吉田橋の馬車道側より伊勢佐木町側を望む。大正12年(1923)に発生した関東大震災から3年が経った頃。横浜の街の復興は、港湾の損傷による物資の受け入れ困難、また震災を原因とした不況などの影響により遅々として進まなかったが、昭和に入る頃になってようやく新たな建物が建ち始めた。
古写真で目の前を流れている川は「派大岡川」。そこに架かる橋が「吉田橋」である。吉田橋は、横浜港が開港したのと同年の安政6年(1859)に初めて架けられた。明治2年(1859)に架け直された3代目の橋は、鉄製であったことと通行料を取っていたことをかけて「鉄の橋」とも呼ばれていた。この古写真に写っている吉田橋は、明治44年(1911)に架け直された4代目のもの。幅21.8mの鉄筋コンクリート製アーチ橋。大正12年(1923)に発生した関東大震災では落橋することなく、戦後の昭和32年(1957)に架け替えられるまで使用されることになる。現在の吉田橋は、昭和46年(1971)に派大岡川が埋め立てられてから架けられた5代目のもの。派大岡川の跡は、首都高速横羽線の切通しとなった。
吉田橋を渡った先の右側に建っている建物は、伊勢佐木町1丁目1番(現同1丁目3番)「イセビル」。昭和元年(1926)に建設され、横浜大空襲や戦後の開発を乗り越えて今も現役で使用されているテナントビルである。関東大震災からの復興にあたり、当時の横浜市会議員上保慶三郎氏の発起によって建設が企画され、「どれだけの震災や火災に耐えられる建物を作れ」という彼の強い希望により、404本ものアカマツの杭の上に耐震耐火性のある鉄筋コンクリート造5階地下1階建で建てられた。以降、現在に至るまでテナントビルとして使用され、写真が撮影された昭和初期頃は朝から晩まで利用客が絶えず、夜でも煌々と明りを灯していたイセビルの姿を人々は「ハマの不夜城」と呼び、羨望の眼差しを向けていたのだという。
古写真が撮影された当時のイセビルに入っていたテナントとしては、1階に洋傘店の「松屋」、2階に牛鍋屋の「旭」、3階にイセビルの建築費用を助成した「復興建築助成会社」の事務所、5階と地下1階に「イセビル食堂」が判明する。このうち5階の食堂は「イセビル展望台食堂」とも呼ばれていた。まだ横浜市街に高層建築が少なかった時代。伊勢佐木町からも横浜港が望めたのであろう。なお、この古写真では5階部分に壁が無く屋根だけ設置されているように見えることから、現在のように密閉された建物では無かった可能性がある。当時の5階展望台食堂はビアガーデンのような構造だったのだろうか?それとも、建物が完成する間際の未完成状態が撮影されたのだろうか。
イセビルの左奥には、大正10年(1921)に建設された野澤屋の新館が見えている。関東大震災の際に焼け残った建物で、この後に同じ吉田橋で昭和3年(1928)頃に撮影された写真では、すでに修復されているのが写っているが、この古写真ではその様子が見受けられず、修復される前だとわかる。
同地で撮影された関東大震災前の写真はこちら。
撮影地:横浜市中区港町4丁目より西方向
被写体:イセビル、野澤屋(松坂屋)、吉田橋(4代)
参考文献:神奈川県職業別電話名簿横浜市之部 地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
イセビル全景
レトロな右読み表記が残るイセビル側面
イセビル屋内階段室
イセビル屋内のすり減った階段