A1023 横濱今昔写真蔵
現在の伊勢佐木町3丁目内から2丁目方向を望む。こちらの写真と同年かそれ以降に撮影されたものと思われる。通りの右奥に又楽館、その向かい側には同年に改築された喜楽座が写る。右側手前の賑座も前年に建物を建て替えて、業態を劇場から活動写真館(映画館)へと変更。「朝日座」として新装開店した。
この古写真が撮影された時期は、伊勢佐木町のシネマ街としての景色がいよいよ整った頃である。日本に映画が伝来したのは明治29年(1896)のこと。神戸の「神港倶楽部」で初めて上映され、その翌年には横浜住吉町にあった「港座」でも上映された。それからしばらくは「カツドー屋」と呼ばれる人が各地の劇場にフィルムを持ち込んで活動写真(映画)上映する行商スタイルが取られていたが、明治36年(1903)に東京浅草に日本初の常設映画館「電気館」が開館すると徐々にその数を増やしてゆき、明治41年(1908)には横浜市内及び伊勢佐木町界隈で初めて活動写真館「喜音満館」が福富町に開館するに至った。その後も敷島館、オデオン座など多くの活動写真館が町内に開設され、シネマ街としての伊勢佐木町の街並みが徐々に作り上げられていったのである。当時の伊勢佐木町で実際に過ごした人の声も残っている。
「三河屋羊羹屋の前が電気館、喜楽座と賑座が向かい合ってて、みんな一日中バカッ面をして芝居の看板を見ている…活動写真は大人二銭、子供一銭、これはずいぶん高くついたねえ。絵が動くというんで飛びついて見にいったが、二、三分で幕サ。汽車が通っていく、異人さんが汽車の中で煙草をふかしながら新聞を読んでいる、新聞に夢中になっていて、タバコを落とす、そこで幕。」(瓜生卓造 著「横浜物語」より)
「定刻になって暗くなると軍隊行進曲が始まる。向かって左の袖からフロックコートを着た弁士が出て来て中央に止る。奏楽がやむと”にぎにぎしく御来場を頂きまして、館員一同厚く御礼申し上げます”と型の如くやった後映画の梗概をシャベッて袖に引っ込む。と同時に映画が写りだすのである。」(「中区わが街」編集委員会「中区わが街」より)
当時の映画は、白黒の無音映像に「弁士」と呼ばれる映像の解説役がつく、もしくは映像に合わせた楽器の生演奏が行われるシステムで上映されていた。現在のように音声と映像が同期するトーキー映画が上映されるようになったのは、昭和に入ってからのことだった。
シネマ街としての景色は昭和戦後期まで続いたが、みなとみらいの開発が始まり、そこに映画館が開館したことによってそちらに客足が取られ、伊勢佐木町界隈の映画館は年々減少。令和6年(2024)現在の界隈に現存する映画館は、長者町6丁目の「横浜シネマリン」と若葉町3丁目の「ジャック&ベティ」の2館のみとなった。伊勢佐木町通り沿いで最後まで残っていた「ニューテアトル」は平成30年(2018)に閉館。今の伊勢佐木町に映画館はもう存在しない。
明治後期(1900~)、大正2年(1913)、大正4年(1915)にも同じ場所で写真が撮影されている。同時期に撮影された他の写真も残っている。
被写体:又楽館、喜楽座、日盛楼、賑座/朝日座
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、横濱社会辞彙、横浜商工名鑑(大7)、横濱成功名誉鑑、横浜中区史
ワンポイント:
撮影/島田翔陽