A3134 横濱今昔写真蔵
吉田橋の馬車道側より伊勢佐木町側を望む。こちらの古写真と同時期に撮影されたものか。イセビルと丸高ストアも写っている。
目線の先に架かっている橋は、「派大岡川」に架かっていた「吉田橋」。横浜港が開港したのと同年の安政6年(1859)に初めて架けられた。明治2年(1859)に架け直された3代目の橋は、鉄製であったことと通行料を取っていたことをかけて「鉄の橋」とも呼ばれていた。この古写真に写っている吉田橋は、明治44年(1911)に架け直された4代目のもの。幅21.8mの鉄筋コンクリート製アーチ橋。大正12年(1923)に発生した関東大震災では落橋することなく、戦後の昭和32年(1957)に架け替えられるまで使用されることになる。現在の吉田橋は、昭和46年(1971)に派大岡川が埋め立てられてから架けられた5代目のもの。派大岡川の跡は、首都高速横羽線の切通しとなった。
吉田橋を渡った先の左側に建っているビルは「松屋吉田橋店」。現在は東京銀座と浅草のみに店舗を構えている松屋百貨店は、はじめ「鶴屋呉服店」として、明治2年(1869)に横浜石川町地蔵坂下で創業した。大正12年(1923)に発生した関東大震災では、石川町の本店や東京神田の支店が被災。店舗再建を進める中で屋号が「鶴屋」から「松屋」に改められ、さらに本店も銀座に変更することとなり、石川町の旧本店は閉店された。その代わりに石川町の仮店舗として営業されていた伊勢佐木町吉田橋店が横浜市内における基幹店とされ、昭和5年(1930)に古写真に写る鉄筋コンクリート造の本建築が竣工。伊勢佐木町通り入口の横にそびえる地上7階地下1階建てのビルは、街の新たな顔となり、通りに店舗を構える野澤屋(後の松坂屋)とともに横浜を代表するデパートとして流行の発信地となった。昭和9年(1933)には、今も伊勢佐木町通りに「エクセル伊勢佐木」として現存している越前屋百貨店の建物を買収して、吉田橋店の支店として「鶴屋百貨店」(後に寿百貨店に改称)を開業。2店舗体制となった松屋横浜は最盛期を迎えた。しかし、昭和16年(1941)に太平洋戦争が勃発し、それがやがて激化すると、松屋吉田橋店の建物は日本海軍に徴用されることとなり、昭和19年(1944)に閉店。建物が海軍の手に渡った後は「海軍航空技術廠」として使用された。戦後は進駐軍が接収。昭和30年(1955)になってようやく松屋側へ返還されたが、松屋の店舗として再開されることはなく、三和銀行(現 三菱UFJ銀行)引き渡されて横浜支店として使用された後、派大岡川埋め立てに伴って昭和47年(1972)に解体された。なお、松屋自体は吉田橋店徴用の際に寿百貨店が松屋横浜店にリニューアルされて戦後まで存続したが、こちらも昭和48年(1978)に閉店。これをもって松屋の店舗は創業地である横浜から消滅した。
撮影地:横浜市中区吉田橋より北西南西方向
被写体:松屋吉田橋店、丸高ストア、イセビル、吉田橋(4代)
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
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