A3151 横濱今昔写真蔵
吉田橋の馬車道側より伊勢佐木町側を望む。大正12年(1923)に発生した関東大震災から14年後。この頃には伊勢佐木町の街はすっかり復興し、ネオンサインが取り付けられた鉄筋コンクリート造のビルが並ぶ通りを、流行の洋服で身を包んだ「モダンボーイ」「モダンガール」たちが練り歩く、モダンな街並みが姿を現していた。
古写真で目の前を流れている川は「派大岡川」。そこに架かる橋が「吉田橋」である。吉田橋は、横浜港が開港したのと同年の安政6年(1859)に初めて架けられた。明治2年(1859)に架け直された3代目の橋は、鉄製であったことと通行料を取っていたことをかけて「鉄の橋」とも呼ばれていた。この古写真に写っている吉田橋は、明治44年(1911)に架け直された4代目のもの。幅21.8mの鉄筋コンクリート製アーチ橋。大正12年(1923)に発生した関東大震災では落橋することなく、戦後の昭和32年(1957)に架け替えられるまで使用されることになる。現在の吉田橋は、昭和46年(1971)に派大岡川が埋め立てられてから架けられた5代目のもの。派大岡川の跡は、首都高速横羽線の切通しとなった。
吉田橋を渡った先の右側に建っている建物は、伊勢佐木町1丁目1番(現同1丁目3番)「イセビル」。昭和元年(1926)に建設され、横浜大空襲や戦後の開発を乗り越えて今も現役で使用されているテナントビルである。関東大震災からの復興にあたり、当時の横浜市会議員上保慶三郎氏の発起によって建設が企画され、「どれだけの震災や火災に耐えられる建物を作れ」という彼の強い希望により、404本ものアカマツの杭の上に耐震耐火性のある鉄筋コンクリート造5階地下1階建で建てられた。以降、現在に至るまでテナントビルとして使用され、写真が撮影された昭和初期頃は朝から晩まで利用客が絶えず、夜でも煌々と明りを灯していたイセビルの姿を人々は「ハマの不夜城」と呼び、羨望の眼差しを向けていたのだという。
別ページでは、この古写真が撮影される以前の昭和元年(1926)頃、昭和3年(1928)頃、昭和5年(1930)頃のイセビルの様子も解説しているが、一部のテナントはその頃から変わっている。2階には旅行案内業の「湘南旅行協会」と「イセビル美容室」が入居している。3階には「イセビル写真場」。階は不明だが、東急電鉄の前身である東京横浜電鉄の出張所も入居していたようだ。キリンビヤホールは変わっていない。読売新聞の広告を掲げている「花田新聞店」はイセビルに入っていたわけではなく、近隣の福富町仲通38番地で営業していた。ビルの一番右側に吊り下げられている垂れ幕は、前年の1936年にアメリカで公開された映画「化石の森」の広告。伊勢佐木町3丁目のシネマ街で絶賛公開中だったのであろう。
イセビルの左奥は野澤屋。昭和元年(1926)の改築前、第一期の改築を終えて4階建てとなった昭和3年(1928)を経て、昭和10年(1935)に7階建てに増築された姿が写されている。これで改築は一段落し、この姿のまま平成20年(2008)に横浜松坂屋として閉店するまで使用された。
同地で撮影された関東大震災前の写真はこちら。
撮影地:横浜市中区港町4丁目より西方向
被写体:イセビル、野澤屋(松坂屋)、吉田橋(4代)
参考文献:職業別電話名簿(昭和9) 地図で楽しむ横浜の近代、東京・横濱近懸職業別電話名簿第26版、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
イセビル全景
レトロな右読み看板が残るイセビル側面
イセビル屋内階段室
イセビル屋内のすり減った階段