A3125 横濱今昔写真蔵
吉田橋の馬車道側より伊勢佐木町側を望む。大正12年(1923)に発生した関東大震災から18年後。伊勢佐木町の復興はすでに完了して人出も戻り、横浜随一の繁華街として最盛期を迎えていたが、この古写真が撮影されたのと同年に太平洋戦争が勃発。町内でも一部の建物が軍部に徴用されるなど、徐々に戦争の足音が聞こえてくるようになる。
撮影者の足元は「派大岡川」に架かっていた「吉田橋」。吉田橋は、横浜港が開港したのと同年の安政6年(1859)に初めて架けられた。明治2年(1859)に架け直された3代目の橋は、鉄製であったことと通行料を取っていたことをかけて「鉄の橋」とも呼ばれていた。この古写真に写っている吉田橋は、明治44年(1911)に架け直された4代目のもの。幅21.8mの鉄筋コンクリート製アーチ橋。大正12年(1923)に発生した関東大震災では落橋することなく、戦後の昭和32年(1957)に架け替えられるまで使用されることになる。現在の吉田橋は、昭和46年(1971)に派大岡川が埋め立てられてから架けられた5代目のもの。派大岡川の跡は、首都高速横羽線の切通しとなった。
吉田橋を渡った先の右側に建っている建物は、伊勢佐木町1丁目1番(現同1丁目3番)「イセビル」。昭和元年(1926)に建設され、横浜大空襲や戦後の開発を乗り越えて今も現役で使用されているテナントビルである。関東大震災からの復興にあたり、当時の横浜市会議員上保慶三郎氏の発起によって建設が企画され、「どれだけの震災や火災に耐えられる建物を作れ」という彼の強い希望により、404本ものアカマツの杭の上に耐震耐火性のある鉄筋コンクリート造5階地下1階建で建てられた。以降、現在に至るまでテナントビルとして使用され、写真が撮影された昭和初期頃は朝から晩まで利用客が絶えず、夜でも煌々と明りを灯していたイセビルの姿を人々は「ハマの不夜城」と呼び、羨望の眼差しを向けていたのだという。
横濱今昔写真が所蔵しているイセビルを正面から写した昭和戦前期の写真としては、昭和元年(1926)、昭和3年(1928)、昭和5年(1930)、昭和12年(1937)、そしてこの昭和16年(1941)撮影の5枚があり、これが一番新しい。キリンビヤホールが入居していた5階には「スキヤキのス」まで読める看板が設置されているが、この当時のテナントは調査中。
イセビルの奥には野澤屋。昭和元年(1926)の改築前、第一期の改築を終えて4階建てとなった昭和3年(1928)を経て、昭和10年(1935)に7階建てに増築された姿が写されている。これで改築は一段落し、この姿のまま平成20年(2008)に横浜松坂屋として閉店するまで使用された。そのさらに奥には、今も「エクセル伊勢佐木」として現存している「寿百貨店」が写っている。
イセビルの向かい側、屋根上に大きなネオン看板を乗せた建物は伊勢佐木町1丁目18番(現伊勢佐木町1丁目2-3)「丸高ストア」。高島屋百貨店が昭和6年(1931)に開店した10銭均一店。今でいうところの100均の走りである。戦後も100円・200円均一の「高島屋ストア」として存続し、昭和50年(1975)頃に閉店するまで続いた。
イセビルと丸高ストアの間には、右読みで「イセザキ町一」と記されたアーチが設置されている。イセザキモール入口には現在もアーチが設置されているが、古写真に写るアーチが初代のもの。昭和10年(1935)に設置されたが、太平洋戦争の激化に伴い、この写真が撮影された翌年に実施された金属回収によって撤去された。
同地で撮影された関東大震災前の写真はこちら。
撮影地:横浜市中区吉田橋上より南西方向
被写体:イセビル、野澤屋(松坂屋)、寿百貨店(エクセル伊勢佐木)、丸高ストア、吉田橋(4代)
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
イセビル全景
レトロな右読み表記が残るイセビル側面
イセビル屋内階段室
イセビル屋内のすり減った階段