V1190 横濱今昔写真蔵
港郵便局交差点より本町1丁目方向を望む。左右に日本大通りが横切る。右側手前に横浜郵便局と、その奥に初代横浜市役所が少しだけ見える。左側手前に生糸検査所1号館、奥に2号館。1号館は、明治34年(1901)開設時の建物を大正7年(1918)に建て替えている。鉄筋コンクリート造3階建て。大正12年(1923)に発生した関東大震災では内部を焼失したものの倒壊はせず、その後修復されて「横浜検事局」として戦後まで使用された。横浜町会所はすでに現存せず、今も残る横浜市開港記念会館が建設されている。
左側に建っている時計塔は、現代においても”ジャックの塔”として親しまれている本町1丁目6番(現番地同じ)の「横浜市開港記念会館」。「開港記念横浜会館」の名称で大正6年(1917)に完成・開館した公会堂である。会館が建つ以前のこの場所には、「横浜町会所」という明治初期の横浜町政を担った建物が建っていたが、明治39年(1906)に火災で焼失。しばらくは更地であったところ、横浜開港50周年を迎えた明治42年(1909)になって、その記念事業として町会所跡地に公会堂を建設しようとの計画が発足した。町会所にもあった時計塔を持つ建物を基本デザインとして絵コンペが実施され、100点の候補の中から福田重義のデザイン案が採用。鉄骨レンガ造、地上2階地下1階、外観はいわゆる「辰野式」の大正ロマン溢れる様式で、大正3年(1914)から3年の歳月をかけて建設された。開館式には、当時早稲田大学総長であった大隈重信や、徳川慶喜の養子で徳川宗家16代目として知られる徳川家達らが参列している。当時の横浜はまだ高層建築が少なかった時代。開港記念会館の時計塔は市内各所から眺めることができたそうで、近代横浜のランドマークとして人々に親しまれた。
大正12年(1923)に発生した関東大震災では、建物本体が大きく崩れることはなかったものの、屋根のドーム群や内装が火災で全焼する甚大な被害を受けた。その後しばらくは廃墟同然の状態で馬小屋に使われるような有様であったが、昭和2年(1927)にドーム屋根を除いた外壁や内装などの復旧工事が完了。運用再開を果たした。戦時中の横浜大空襲では被害を受けることはなかったが、終戦後に進駐軍によって接収され、進駐軍兵站司令部「メモリアルホール」として昭和33年(1958)まで使用された。同年に接収解除されて横浜市の手に戻り、このときに「横浜市開港記念会館」と改称された。平成元年(1989)に震災で失われたドーム屋根が復元され、震災前の外観を取り戻した。屋内も震災復興当時の内装がそのまま現存している。
被写体:横浜市開港記念会館、生糸検査所(初)、横浜郵便局、横浜市役所(初)
参考文献:横濱社会辞彙、横浜市webサイト
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