A3183 横濱今昔写真蔵
吉田橋の馬車道側より伊勢佐木町側を望む。大正12年(1923)に発生した関東大震災から7年後。伊勢佐木町の街並みも新たな建物が建ち並んで整ってきており、人通りも増している。
撮影者の足元は「派大岡川」に架かっていた「吉田橋」。横浜港が開港したのと同年の安政6年(1859)に初めて架けられた。明治2年(1859)に架け直された3代目の橋は、鉄製であったことと通行料を取っていたことをかけて「鉄の橋」とも呼ばれていた。この古写真に写っている吉田橋は、明治44年(1911)に架け直された4代目のもの。幅21.8mの鉄筋コンクリート製アーチ橋。大正12年(1923)に発生した関東大震災では落橋することなく、戦後の昭和32年(1957)に架け替えられるまで使用されることになる。現在の吉田橋は、昭和46年(1971)に派大岡川が埋め立てられてから架けられた5代目のもの。派大岡川の跡は、首都高速横羽線の切通しとなった。
吉田橋を渡った先の右側に建っている建物は、伊勢佐木町1丁目1番(現同1丁目3番)「イセビル」。昭和元年(1926)に建設され、横浜大空襲や戦後の開発を乗り越えて今も現役で使用されているテナントビルである。関東大震災からの復興にあたり、当時の横浜市会議員上保慶三郎氏の発起によって建設が企画され、「どれだけの震災や火災に耐えられる建物を作れ」という彼の強い希望により、404本ものアカマツの杭の上に耐震耐火性のある鉄筋コンクリート造5階地下1階建で建てられた。以降、現在に至るまでテナントビルとして使用され、写真が撮影された昭和初期頃は朝から晩まで利用客が絶えず、夜でも煌々と明りを灯していたイセビルの姿を人々は「ハマの不夜城」と呼び、羨望の眼差しを向けていたのだという。
昭和元年(1926)や昭和3年(1928)頃にもイセビルの姿が撮影されているが、それから新たなテナントが入っていたり、一部のテナントは入れ替わっている様子が見受けられる。2階には新たにビリヤード場や麻雀場が入居している。4階には「BAR VENICE」が入居しており、以前まで営業していた旭牛鍋店は無くなっている。「~支店」と書かれている看板は、3階に入居していた復興建築助成会社のものと思われる。1階の松屋洋傘店や5階のキリンビヤホールは健在。
イセビルの左奥は野澤屋。昭和元年(1926)の写真では改築前であったが、こちらの写真ではすでに改築を終えて建物正面が西洋風に整えられている。このときの建物は4階建てであったが、昭和10年(1935)にさらに改築されて7階建てになっており、昭和12年(1937)に同地で撮影された写真で確認できる。野澤屋の詳しい歴史はこちらを参照。
通り入口左側の建物には横長の広告が設置されているが、これは東京横浜電鉄(現 東急電鉄)東横線の広告で、当時の路線図が記載されている。拡大してみると「渋谷」や「目黒」、「菊名」などの駅名が確認できる。東横線の開業は大正15年(1926)。初期の運転区間は丸子多摩川駅(現 多摩川駅)~神奈川駅(廃駅)間。渋谷駅~桜木町駅間の全線開通は昭和7年(1932)だった。
同地で撮影された関東大震災前の写真はこちら。
撮影地:横浜市中区吉田橋上より北西方向
被写体:イセビル、野澤屋(松坂屋)、吉田橋(4代)
参考文献:地図で楽しむ横浜の近代、中区わが街、ハマの建物探検、モダン横濱案内、横浜市商工案内、横浜中区史、横浜・港・近代建築、横浜都市発展記念館
ワンポイント:
野澤屋
東横線の広告
イセビル全景
レトロな右読み表記が残るイセビル側面
イセビル屋内階段室
イセビル屋内のすり減った階段